2018年長征:1日目(関空→香港)
1934年、江西省瑞金に拠点を置いていた中国工農紅軍は、国民革命軍による度重なる包囲戦に耐え切れず、遂に根拠地を放棄して移動を始めた。これは、1万km以上を徒歩で行軍する過酷な移動となり、1936年に陝西省延安に到達した時点で、瑞金出発当初総兵力8万を有していた紅軍は、8000程度にまで減少していた。この一連の大移動を「長征」と称する……
かねてから中国共産党史に興味を持っていた筆者は、2018年、延安や遵義といった長征の舞台となった都市を巡る旅を計画した。同時に毛沢東生誕の地である湘潭や、諸葛亮の墓がある勉県、天津租界、マカオなどにもこの際に行ってしまうことにした。
そうなると、中国のどこに入国するかが問題になる。色々と考えていたのだが、折しも激安航空券を投げ売りしていた香港エクスプレス航空にまんまと釣られ、出入国地は香港に決まった。
だが、この時点で筆者は、旅程が始まる前から崩壊してしまうことを知る由もなかった……
9月4日、大型の台風21号が関西に上陸、各地に甚大な被害をもたらした。この台風により、関西国際空港では滑走路が水没、暴風に煽られたタンカーの衝突により連絡橋が大破するなど、特に大きな損害を被った。
9月18日の便を予約していた筆者は肝を冷やした。航空会社に連絡してみたが電話もメールも全く繋がらなかった。幸い復旧が予想以上に早く進んだこと、ギリギリになって電話が通じたことで何とか渡航は可能となったが、本来搭乗する便が欠航となり、より時間の遅い便に振り替えとなった。
しかしながら、ここで一つ問題が浮上する。本来の旅程では、18日の夕方に香港に到着し、その日のうちに広州まで移動して、そこで一泊する予定だったのだ。一方、振り替え便が香港に到着するのは0時前。広州への移動は不可能だ。
空港近くのホテルに宿泊するのが定石だろう。が、貧乏学生にそこまでの金の余裕はない。よって、空港で一夜を明かすことにした。人生初の空港泊である。
何とか4時間は眠ることができたが、背中と首はバキバキになった。一応人通りの多そうな場所を選んだので、トラブルには巻き込まれずに済んだが……。周囲には空港泊の旅行者も散見され、少し安心(?)。
こうして4度目の中国単独旅行が幕を開けた。
2017年華中遠征10~12日目(上海→日本)
朝9時半頃に上海南駅に到着した。
この日は船に乗らねばならなかったので、観光は簡単に済ませてフェリーターミナルへ向かった。
本旅程最後に立ち寄ったのは龍華寺。
創建は三国呉の時代に遡る。孫権の母によって創建されたのだという。
今残っている建物は光緒年間のものだそうだ。
龍華寺を後にして、地下鉄で国際客運中心站に向かう。
その名の通りフェリー乗り場の最寄り駅だ。
大事をとって早めに行ったのだが、待ち合いにもチェックインカウンターにも誰もおらず、大変焦った。
しばらく待っていると乗客と思しき人民がチラホラ現れ始め、そのうちチェックインカウンターが開いたので乗船手続きを済ませた。
今回利用したのは新鑑真号。日本に就航している数少ない国際フェリーで、20年以上前から日中間を結んでいる。
LCCの隆盛する昨今、わざわざ船で海外旅行をする人は相当減っているようで、旅客定員345名のこの船に乗っていた客は、わずか30名程度だった。
正午出航の予定だったが、数時間遅延して出航することとなった。
出航後しばらくは河口を航行するため電波は拾えるが、外洋に出てからは当然拾えなくなった。
夕食を済ませた後は読書などをして過ごし、20時就寝を達成した。
……ほとんど飯の写真になってしまった。
外洋ではほとんど景色が変わらないので、必然こういう写真だけになってしまう。
ご勘弁願いたい。
そうこうしているうちに五島列島が見えてきた。
電波も戻ってきたようだ。
船旅は2泊3日に及んだが、あれよあれよと時は過ぎ、大阪港が見えてきた。
国際航路を利用したのは初めてだったが、こういうスローな旅も悪くない。
また乗りたいし、蘇州号にも乗ってみたいものだ。
こうして飛行機、高速鉄道、在来線、地下鉄、長距離バス、路線バス、バイクタクシー、船と、様々な交通手段を利用した華中遠征は幕を閉じた。
[付記]
この記事を書くために新鑑真のHPを見直したところ、昨年にサイトをリニューアルしていたようだ。とても見やすくなっているのでご参考あれ。
2017年華中遠征記録9日目(南昌→上海)
9日目は朝一で南昌起義紀念館へ。
何でも一回の入場人数に制限があるらしく、入れませんでしたとなるのも残念なので、開館凸を狙った。
行列はできていたものの、幸いそこまで長くなく、難なく入場できた。
なおこの待機列で大学院入試の合格を確認した。
博物館内はいたって普通の革命博物館という趣で、特に目新しいものはなかったが、相変わらずジオラマや展示の配置方法が凝っていて感心した。党史に関わるので当然といえば当然だが。
博物館の隣には、南昌蜂起の際に紅軍が指揮所を置いていた建物が残っており、一般開放されている。
紀念館を後にし、滕王閣に向かった。
実は南昌に来た目的の8割ぐらいは紀念館だったので、これ以降は行き当たりばったりで動いている。
滕王閣の存在を知ったのもこの前日なのだ。
中には南昌の歴史に関する展示があったが、かなり簡潔だった。
江西出身で科挙に受かった者の名簿もあり、相当な名誉だったのだなと感じた。
とはいえ数百年に渡って自分の名前を晒され続けるのか……
滕王閣は江西省博物館にもほど近い。
というわけで実際に行ってみた。
自然科学館と歴史館に分かれており、そこそこの広さがあったが、全体的に閑散としていた。一応省レベルの博物館なんだからもっとがんばってくれ。というかもっと行ったれ。
この後は完全にノープランだったので、南昌市街地を徘徊。
ウォルマートで買い物したり、八一広場でダラダラしたりしていた。
この日は夜行で上海に向かった。
南昌から上海までは夜行で行くほどでもないのだが、夜行列車に乗りたい気持ちを抑えられず、ついつい切符を取ってしまった。
2017年華中遠征記録7日目(赤壁)
華中遠征7日目は、三国志を知らない人でも一度は耳にしたことがあるだろう(要出典)赤壁を訪問した。
ここから徒歩で城西バスターミナルを目指す。
駅から路線バスでもアクセスできるようだが、本数も少なそうだったので今回は徒歩で向かった。所要時間は1時間かからないぐらいだったか。
ここからバス(という名のミニバン)で1時間程度走り、赤壁へ向かう。
バスを降りてから徒歩10分ほどで赤壁古戦場の入り口に到着。長江沿岸一帯がテーマパークになっており、順路を進むことで赤壁の戦いやその他の有名シーンを追体験できる仕様になっている。
しばらく進むと有名な周瑜像が現れる。
そして周瑜像の脇にある階段を下りて行くと……
うおおおおおおおおおおおお!!!!!!
と思わず声が出てしまうほど感動した。
近くにいた人民に写真を撮ってもらったほどには興奮していた。
ちなみにその人民にどこから来たのか訊かれたので日本からだと答えると、えらく感心された。
まぁ三国志ファンぐらいしか来ないだろうし、アクセスがいいとは言えないので珍しかったんだろう。
赤壁古戦場にはこの他にも色々と見どころが満載だ。
向かったのは亀山公園。魯粛の墓がある公園で、三国志武将の像もある、一種の聖地だ。
夜は武漢で有名な夜市が立つ戸部巷で熱干面をいただいた
2017年華中遠征記録6日目(宜昌→武漢)
当陽を観光した後はバスで宜昌に移り、そこで一泊した。
そういうわけで、6日目は宜昌からスタートだ。
宜昌は三峡下りの拠点として有名だが、今回の目的は猇亭古戦場、すなわち夷陵だ。
関羽を失った劉備は、自ら軍勢を率いて呉に挑む。しかしながら陸遜の計略の前に敗れ、遂には白帝城でその生涯を終える……。蜀ファンにとっては悲壮感漂う名場面だ。
そんな夷陵だが、敷地内の像はかなり気合が入っている。
ただ特に資料館があるとかいうことはなく、雰囲気重視という感じだった。観光客は雨のせいもあったのだろうが筆者一名で、物寂しさを感じた。
宜昌をあとにして向かったのは武漢。
まずは高鉄で漢口駅に入り、地下鉄で町の中心部へ。
宿に荷物を置いて、真っ先に辛亥革命博物館を訪問した。
両岸で尊敬されている数少ない人物であるところの孫文。人民共和国としても毛沢東並みの力を注いで展示を作っているようだ。
この日は雨が強く、上記以外の場所には出向かなかった。
熱干面でも食べに行こうと思ったが、結局宿から出ずに翌日を迎えることとなる。
2017年華中遠征記録4日目(襄陽→当陽)
4日目は前日の積み残しからスタート。
前日発見できなかったのはまさにこの檀渓であった。
実は近くまでは行っていたようなのだが、幹線道路から少し奥まった所に位置していたため見逃していたのだ。
檀渓とは、劉表の部下・蔡瑁らに暗殺されそうになった劉備が、拠点の新野に戻る際に愛馬(?)的驢を駆って飛び越えた地だ。
物語では激流として描かれているが、実際には下の写真のような感じだ。
その幅の狭さは噂には聞いていたが、水すら流れていないとは……
まぁ檀渓の故事自体演義の創作ですし……
檀渓を拝んだ後は市バスに乗り古隆中へ。
降りるバス停を間違えたため、軽い登山をする羽目になった上、入り口が分からず最終的に辿り着いた場所にいた係員の専用カーで送ってもらうなどし、何とか到達。
古隆中(=隆中)とは、諸葛亮が劉備に仕官するまで隠棲していた土地だ。
……どこかで見たフレーズだ。
それもそのはず、この前日に訪れた南陽武侯祠も同じ文句を謳っているからだ。
どうやら襄陽と南陽は、どちらに諸葛亮が隠棲していたのかで張り合っているようだ。
まぁ、襄陽に軍配が上がるとは思うが……
古隆中は一大諸葛亮テーマパークと化しており、その規模は成都武侯祠に勝るとも劣らない。とにかく広く、敷地内はバスで移動する。
一応廟のような建物もいくつか配置されており、そのすべてで諸葛亮が出迎えてくれる。諸葛亮好きにはたまらないスポットだ。
古隆中を後にし、襄陽駅へ移動。
襄陽から特快に揺られること2時間、次なる目的地当陽に到着した。
ここはかの有名な長坂の戦いの舞台であり、三国志ファン垂涎(独自調べ)の土地である。
一方なかなかの田舎町なので、市バスを乗り回すのは難しい。そこで、徒歩を駆使して観光することにした。湯豆腐旅行ではよくある。
ということで駅を出て最初の目的地、張翼徳横矛処を目指して歩いていると、原付が寄ってきて何やら話しかけてくる。最初は無視していたが、粘り強くついてくるので、道を尋ねて適当に別れようと一旦話に応じることにした。
湯豆腐「張翼徳横矛処に行きたい」
運転手「ここの道をまっすぐ行けば着くぜ。乗ってくかい?」
どうやら後ろに乗せてくれるようだ。押しに弱い筆者は、根負けして乗ることにした。
農道を走ること数分、張翼徳横矛処に着いた。
撮影を終えて運転手同志と別れようとすると、彼はまた何やら話しかけてきた。
運「お前長坂坡公園とか関陵行きたいんじゃないの?連れてってやるよ」
これは僥倖だ。田舎町とはいえそこそこの広さのある当陽を全て徒歩で回るのは流石にキツいなと思っていたところだ。筆者はこの運転手同志の話に乗ることにした。
こうして原付チャーターでの当陽観光が始まった。
まずは当陽名物・ブラック趙雲像である。
めちゃくちゃかっこいい。何だこれは。合肥の張遼像か当陽の趙雲像かと言ったところだろうか。
ちなみにこの像の奥に長坂坡公園があるが、この時点ではまだ入っていない。
次は太子橋に向かった。長坂の戦いの終盤、趙雲が劉備に阿斗を返した場所だ。
この後運転手同志は、「玉泉寺行くか?」と訊いてきた。玉泉寺とは、関羽の霊が神になった場所として有名だが、当陽の郊外に位置しており、そこまで行く時間の余裕はなかったので今回はパスした。
太子橋の次は関陵へ。関羽の胴体が埋葬されている場所だ。
いくつもの殿を潜り抜けると、恵陵にも匹敵しようかというほどの大きさの墳墓が現れる。これこそが関羽の墓である。
当陽に来る機会があれば是非とも訪れてほしい。三国志ファンはもちろん、そうでない方にもおすすめできるスポットだ。
関陵参拝中、運転手同志はずっと入り口で待っていてくれた。
運「これからどうすんだ」
湯「この後はバスで宜昌まで行く」
運「そうか任せとけ」
そう言うと運転手同志は原付をかっ飛ばし、長距離バスターミナルまで連れて行ってくれた。
しかし、ここで筆者は重大なことを思い出した。
まだ長坂坡公園行ってねえ!!!!!!!
ここからなけなしの中国語とメモ帳筆談による会話が始まった。
湯「長坂坡公園に行きたい」
運「さっき行ったじゃん」
湯「入場はしてねえ!!!!」
運転手同志は何とか理解してくれたようで、すぐに取って返してくれた。
というわけで長坂坡公園である。
長坂の戦いについては説明不要だろう。今はただの公園だが、それで十分だ。長坂にいるということが重要なのだ。
一応公園内には趙雲の像があったりする。
ここを最後に、原付チャーターによる当陽観光は閉幕した。しっかりお代(30元)は徴収された。
ありがとう名も知らぬ運転手同志。